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Uzbekistan

プロフィル

ウズベキスタンの地理

ウズベキスタンの歴史

人々との生活と習慣

技術と衣装

National flag emblem and anthem

Views of Uzbekistan
ゴールデン・ルートのサマルカンドへ

神聖なブハラ

ヒワは野外博物館

タシケント首都

ヌラタはアレクサンドル王様の足跡があるところです。

中央アジアのシルク地域

ヌクスは、

テルメズはウズベキスタン共和国の南部

シャフリサーブズー緑の都市


プロフィル


正式国名 ウズベキスタン共和国

首都 タシケント

面積 447,800平方

通貨 スム $1= 1160 スム 1イェブロ= 1305 スム

公用語 ウズベク語。長い間ソ連支配下にあったため、ほとんどの人が日常的にロシア語を話す。ウズベク語は現在キリル文字で書き表される画、2005年までに28文字のラテン文字に移行の予定。ただし、カラカルパクスタン自治共和国ではカラカルパク語が日常的に話される。

人口 約 2600 万人

民族 ウズベク人、ロシア人、タジク人、カラカラパクス人、カザフ人、韓国人、ドイツ人、アルメニア人。

宗教 イスラム(84%)ウズベク人のほとんどがスンニ派(88%)ムスリム。東方正教9% 他3%

国家元首 大統領 現在はカリーモフ · イスラム · アブドウガニエウィッチ

言語 ウズベク語

国番号 998

時間帯 GMT +5(日本との時差はー4時間)

主要産業 綿花生産 (生産量:世界第5位、輸出量:世界第2位)天然ガス 自給率が100%を超えており、周辺国に輸出。特にブハラは世界―天然ガス理蔵量の多い都市。金の生産量も世界有数。石油も産出される。鉱物資源が豊富。牛肉をよく食べる。 é ウズベクの男は米も野菜もいらない。牛肉があればそれでよい û とはガイドの言葉。 1 人あたりの年間牛肉消費量は世界第12位。日本の約2倍の量

の牛肉を食べる。

天候:大陸性気候です。一般に南部は暑く、北部は寒い特徴があります。 12 月の気温は北部ではー5 ° C, 南部では0- C 程度です。特にはー10 ° C 程度に下がることもあります。夏は45 ° C 以上にあがります。

湿度は高くありません。春(4-5がつ)と秋(9-10がつ)が旅行のベストシーズンです。春は天候が穏やかで沙漠の草花が咲き誇っています。秋は収穫の時期で、マーケットは新鮮な果物であふれています。もしトレッキングをお望みでしたら雨がほとんど降らない夏( 7 - 8 月)が適度時期です。近年ウズベキスタンは地球温暖化とアラル海の干上がりの影響を受けて、冬でも降雪量が少なくなり、冬場の旅行も可能になりました。

 

月別最高最低気温(℃)

 

 

5

6

7

8

9

タシケント

最高

27

31

34

33

28

最低

13

29

18

16

11

東京

最高

23

26

29

31

27

最低

14

18

22

24

19



ウズベキスタンの地理

ウズベキスタン共和国はアムダリャ河とシルダリャ河にはさまれた中央アジアの中心部に位置します。首都は東にあるタシケントです。ウズベキスタンは西はトルクメニスタン、北東部はカザフスタン、キリギス、タジキスタン、また一部アフガニスタンとも国境を接しています。面積は 447.4 平方㌔メトル。12の州とカラカルパキスタン共和国に区分されています。

北西部はトラン低地、南東部は天山パミール山地があり、北部にはキジルクム砂漠があります。アムダリャ河とその灌漑用水、シルダリャ(シルダリョ)、ザラフシャン河などの河川があり、アラル海に注いでいます。

国土の2 / 3はステップあるいは沙漠地帯ですが、アラル海にそそぐアムダリャ河がつくり出すデルタ地帯に人々は生活を営んできました。中央アジア全体にとって最も重要な河川はアムダリャ河です。アムダリャ河はトルクメニスタンとアフガニスタンの国境線の役割を果たしています。アムダリャ、シルダリャ、ザラフシャン河の源流と沖積平野の接近には最も豊かな地域であり、多くの人々居住しています。



ウズベキスタンの歴史


古代と現代、昔と今日は永続的です。伝説、神話、伝統、古風さを証明する資料は世代に伝われてきています。各時代はその当時に当たる原料と文化的な建造物を古代街の荒廃の風景として残っています。この全部が国民の基本的な記憶と歴史的な所有物であります。ウズベキスタン共和国は古文明ですから、千以上の考古学と建築学の建造物が保存されています。ウズベキスタンである科学基金と博物館で国の莫大な質の文書と古代的なことを証明するものを発見することができます。ウズベキスタンの領土の文化、地位、外国経済と社会的な関係は歴史上約二百万五千(2、5ミリオン)かかります。ウズベキスタンの国民は独立好き住民ですから、数世紀ずっと全外国の浸入者に反対して戦闘してきました。シルクロードの交差点にあるウズベキスタンの宗教は異なった文明を結ぶために重要な役割を持っています。ですから、古代から繁栄してきたウズベキスタンは特にサマン朝とチムール帝国支配で地方の外交経済交流の連座と関連したのです。

原始時代

初期に人間文明の足元は (700 年から 600 年まで紀元前 100 万 ) 旧石器時代に所属しています。この時代に付属している労働機器はザラフシャンオアシスとバイスン山山で発見されたのです。石器過程に従って石器時代はみつの主な時代に分けられます。フェルガナ盆地にあるセルングルの洞窟でアシェル時代に (700 年から 500 年まで約紀元前 10 万 5 千年 ) 所属してる男性の遺物 ( フェルガンツロプ ) が見つかったのです。人間の新人類-ネアンデルタール人は中央アジアで旧石器時代 ( 紀元前約 10 万年から 4 万年まで ) に現れたのです。当時にウズベキスタンの領土で当代の人間が住まされたのです。スルホンダリャ州にあるテシクタシュ小洞窟で当時の宗教信仰さの著挿絵を見せるネアンデルタール男が発見されたのです。

7 万年前初人間の部族が現れたのです。住民は機器のために石の代わりに銅と鉄を利用することになりました。収集と狩猟―主職業は農業と繁殖に変わりました。初期農場経営はバクトリア、ホレズム、ソグジアナとパルチアの肥沃な土地オアシスで出現しました。古拠と題字は紀元前千年際の農業を証明します。

最初の世界帝国・アケメネス朝ペルシア

西アジアやイラン高原で繰り返された諸民族の興亡の中から紀元前6世紀に出現したアケメネス朝ペルシアは、史上最初の強力な政治体制を備えた帝国で、版図にはイラン、中央アジアから北西インドまでを含んでいた。 それ以前の中央アジアは、北部の草原にスキタイ人、サカ人、サルマト人などのイラン系遊民族、中央部ソグデイアンナにソグド人、南部には古代バクトリアが栄えていたが、アケメネス朝に次第に征服されていった。

アレクサンドロス大王の東征

アレクサンドロス大王は10年にわたる東方遠征でアケメネス朝ペルシアを征服し、中央アジアでは抵抗するソグド人のソグデイアナを平定して、バクトリア,北西インドに及ぶ拡大な領土にギリシャ人を居住させ、ギリシャ風文物(ヘルニズム)を伝播させた。 しかし大王の死後、帝国の統治は4人の部下の武将に委ねられた。中央アジア地域の新しい支配者となったのはセレウコスである。前280年に暗殺されると息子のアンチオコスが跡を継ぎ、領内各地に自分の名を記念してアンチオキアと名づけた都市を建設した。メルヴ遺跡に現在するギャウル・カラは、マルギアナのアンチオキアといわれている。 グレコ・バクトリアとパルテイア帝国

セレウコス朝が内紛のため弱体化しつつあった前250年頃、南部領のバクトリアはに四方のギリシャとの関係を断ってグレコ・バクトリアとして独立した。 南部領でも同じ頃パルテイリア人たちがアルサケス朝パルテイアを建国した。最盛期のパルテイア帝国の版図はイラン、中央アジア、アフガニスタン北部までを含んでいたが、首都のヘカトンピュロスはまだ発見されていない。 パルチア帝国の台頭は、ローマ帝国の東方進出との衝突を不可避けにした。両帝国の数回にわたる会戦いずれもローマ側の敗戦に終わり、莫大な賠償金を支払わされた。
シルクロード最初の発展

パルテイア帝国の東辺部にあたるアムダリア川流域には、前160年頃匈奴から追うわれた月氏が大月氏を建てていた。漢の武帝は侵入を繰り返す匈奴を挟撃すべく、前139年に張騫を大月氏国に派遣した。大月氏国との同盟は得られなかったが、張騫は13年に及ぶ苦難の旅から西域に関する知識と文物を持ち帰り、シルクロード発展の大きな契機となった。 前1世紀末北西インドに興ったクシャン朝全盛期はカニシカ王の時代で、東西トルキスタンの一部を含んでいた。ウズベキスタン南部テルメズとメルヴに残る仏教遺跡は、当時の仏教勢力の伝播を物語っている。 ササン朝ペルシア

500年近く続いたパルテイア帝国は、226年頃イラン高原に出現した新興勢力に滅ぼされた。勝利したアルダシールはアケマネス朝のササンの子孫であることから、新国家をササン朝ペルシアと名づけ、東方遠征では中央アジアとクシャン朝を征服し、西方ではローマ帝国と戦ってローマ皇帝を捕虜にした。ゾロアスター教信仰によるペルシア帝国の復興を目指したササン朝の領土はアケメネス朝の版図を回復し、6世紀ホスロー1世の時代に全盛期を迎えた・ササン朝ペルシアの文物は中国の唐代から日本の正倉院にも大きな影響を及ばしている。 トルコ族の出現

5世紀中頃ササン朝ペルシアの東辺部にあたるアムダリヤ川流域を、エフタルが脅かし始めた。アルタイ地方から西方へ移動した遊牧民族で白いフンともいわれたエフタル族は、アムダリャ川を越えてソグヂアナ南部からイラン東部、北西インドの一部を領有して勢力を強めた。 6世紀中頃、同じくアルタイ地方でモンゴル系北方遊牧民族の柔然を破って出現したトルコ系遊牧民族の空蕨は後に東西に分かれ、東空蕨はモンゴルを、西空蕨はソグヂアナを中心として西トルキスタン (“トルコ人の土地”の意)の支配を確立した。ササン朝ペルシアと空蕨に挟撃されたエフタルは567年に滅亡する。 唐の西域支配し

618年に成立した唐は、西域への交通路を支配下におきシルクロードの通商を妨げる空蕨勢力に全力を挙げて対抗した。まず鉄と同盟して東空蕨を挟撃し、内紛に乗じて西空蕨を630年に討つって西トルキスタンへの進出を勝ち取った。唐がソグヂアナを支配していた7世紀中期には、ソグド商人の活躍で西域からのイラン風文物が長安に流行した。 アラブ軍の侵攻とイスラム化

7世紀はじめにアラビアを統一したイスラーム勢力は周辺への布教と領土拡大に乗り出し、中央アジアに到達した。400年あまり続いたササン朝ペルシアは、651年最後の王をメルヴで殺されて滅亡した。中央アジアはゾロアスター教や仏教に代わって、イスラーム化が急速に進んでいった。 705年から10年間にわたるクタイバ将軍の中央アジア遠征は、西トルキスタンを支配した唐との衝突を不可避けにした。751年アッバス朝のサリーフと唐の++++に指揮された10万の大軍がタラス川河畔で激突し、東西対決は唐の大敗似終わった。このときアラブ軍に運行された東軍の捕虜が紙の製法を西方へ伝えるきっかけとなり、サマルカンドに最初の製紙工場が造られた。 イスラーム王朝の台頭

9世紀後半アッバス朝アラブのイスラームによる厳しい支配に、中央アジアの各地で反乱が相次いだ。テルメズ出身のイラン系豪族でイスラームに改宗したサーマーン家は、カリフから、ソグヂアナの統治権を与えられ、イスマイールはブハラを首都にサーマーン朝を興した。サーマーン朝はサーマーン、アサド、アフメッド、イスマイール野4代が栄えたが,999年西進したカラハーン朝に代われた。 サーマーン朝を滅ぼした。カラハーン朝は、10世紀中頃カシュガル地方でイスラーム化したウイグル族で、東西に分かれた後、東カラハーンはバラサグンを、西カラハーンはサマルカンドをそれぞれ首都として中央アジアに勢力を張った。 ホレズム帝国

11世紀末セルジュク朝の領土だったアクダリャ川下流のホレズム地方を、元奴隷の太守が治めていた。その子孫は次第にその周辺を勢力下に収めてセルジュク朝から独立し、13世紀始めスルタン・ムハンマドは南辺のソグヂアナの西カラハーン、西トルキスタンのカラキタイと対決するまでになった。 1210年ホレズムシャーはタラス川付近でカラキタイを撃破し、西カラハーンにも勝利した。カラキタイを敗北させたスルタン・ムハメッドは、異教徒に対するイスラムの権威を高めたことで、周囲の賞替に自惚れた。これがオトラル事件に檄恐したチンギズ・ハーンの征西を引き起こしことになる。 チンギズ・ハーンの征西

13世紀始めテムジンは、モンゴルの諸部族を統一してチンギズ・ハーンとなった。周辺へ勢力を拡大し東トルキスタンを征服したモンゴルは、西方のホレズム帝国と国境を接することになった。そこでチンギズ・ハーンはホレズムとの外交関係を進めるために、1218年にキャラバンを派遣した。ところがこの一行は、途中のオトラルで代官によって略奪され、ひとりを除いて全員が殺されてしまった。 これに檄恐したチンギズ・ハーンただちにホレズム討伐に向かった。捕らえた代官に残酷な処刑を行い,スルタンをカスピ海の孤島に追い詰めて病死させ、その母親をモンゴルに連行した。5年間にわたるモンゴル軍の席巻で、中央アジアは徹底的に破壊された。特にサマルカンドとブハラの被害は甚大だった。 モンゴル帝国の分裂とチガタイ・ハーン国

1227年チンギズ・ハーンの死後、ユーラシアからロシアに及ぶ拡大な所領は息子たちに分封され、13世紀後半にはその一族による4ハーン国が成立した。次男チガタイに与えられた中央アジアにチガタイ・ハーン国が成立したが。1320年に東西に分裂し、東チガタイはモゴリスタンに、西チガタイは西トルキスタンに勢力を張った。この地から次の帝国の英雄チムールが出現する。 チムール帝国

1336年ケシュ(現シャフリサーブズ)モンゴル系バルラス族に生まれたチムールは、チガタイ・ハーン国の再統一を目指したモンゴリスタンからやって来たトグルク・ハーンからカシュカダリャ(南部ウズベキスタン)の領主に任じられた。親しくなった最後のチャガタイ・ハーンの孫フセインとサマルカンドを中心に協力し合ったいたが、やがて両者の間に不信の溝が深まっていた。 1370年フセインを討ったチムールは、チガタイ系子孫の一人を各目上のハーンに迎え、一族の女性と結婚してアミール(太守)を名乗った。こうして西トルキスタンの事実上の支配者にのし上がった。 チムールは頻繁に外征に出かけ、モンゴリスタン、イラン、ヴォルガ川下流域の旧3ハーン領を獲得して小アジア,コーカサス、インドまでを版図に加えた。サマルカンドは、チムール色の青タイルの建築物が建ち並ぶ壮麗な首都なった。 1405年冬、チムールは明への遠征中オトラルで急死、息子のシャー・ルフから跡を継いだ孫のウルグベクは権力者としてよりも天文学者として知られているが、反乱を唆された息子に殺された。 チムールは帝国は一族の紛争が続いて衰退し、15世紀末に最後のスルタン・あーマッドが暗殺されて再燃した一族の権力争いの間に、ウズベク族が台頭してくる。 ウズベク族の台頭

チンギズ・ハーンの長男ジュチの子バトウに分与されたロシアに成立したキップチャク・ハーン国から、ジュチの五男シャイバニの子孫が分かれて一部族となった。これがウズベク族の始まりである。 内紛の続くチムール帝国にウズベク族のムハンマド・シャイバニが頭角を現し,西トルキスタンを1500年に平定してサマルカンドにシャイバニ朝を開いた。チムール族のバーブルは、しばらくの間シャイバニ勢力に敵対していたが、勝利を得られなかったのでインドへ退き、その後ムガール帝国の始祖となった。 シャイバニ朝は西トルキスタンからフェルガナ、ホレズムヘもウズベク勢力を広げたが、1598年最後のハーンの死後、その政権は同族のブハラ・ハーンに継承された。 ブハラ・ハーン国

モスクワ公国滅ぼされたキップチャク系アーストラハーン朝のバギー・ムハンマドは、シャイバニ朝に代わって1599年ウズベク国家の実権を握ったが、首都をブハラに定めたのでブハラ・ハーン国と呼ばれた。 18世紀後半に実権を奪ったウズベク族のマンギット朝は、厳格な宮廷儀式を重んじイスラームの戒律を市民生活に強制した。 ロシア帝国の南下頭インドから北を狂うイギリスとの利害が絡んで、外国人の侵入に神経を尖らせ、閉鎖的な秘密国ブハラのイメイージを強めた。 ヒバ・ハーン国

シャイバニ朝が支配していたホレズム地方を一時占領したイランに対し反乱を指揮した元首長のひとりイルバルスは、1512年ブハラ政権からヒバ・ハーン国を独立させた。 アムダリャ川下流のデルタ地帯を領域とする小ハーン国だったが、ロシアと中央アジアを結ぶ要路に合って、諸民族の往来が激しく対外関係は複雑で、ブハラ・ハーン国とは勢力争いが絶えなかった。 ウルゲンチ近郊のヒバ・ハーンのイチャン・カラ(内城)は、住民が今も生活している史跡ゾーンである。 こーカンド・ハーン国

シャイバニ朝やアーストラハーン朝の領土だったフェルガナ地方は政治的統一がなく、ウズベク族の周辺にカザフ族やキリギズ族が割拠していた。 18世紀始めウズベク族ミン氏がこの地に支配を強め、その子孫エルデニ・ベクはフェルガナ地方を統一して、1753年ブハラ・ハーン国から独立しコーカンド政権を樹立した。 外交関係を深めた清朝と西トルキスタン、ロシア帝国との間を結んだ中継貿易で莫大な利益を収めたが、1840年代からブハラ・ハーン国からの侵略と内紛で弱体化した。 ロシアの中央アジア征服

16世紀にイワン雷帝は、ヴォルガ川流域に残ったキプチャク系ハーン国をモスクワ公国に合併し、中央アジアとの通商に乗り出した。3ハーン国を中継する中国との貿易を通じて中央アジア地域との対外関係は発展していったが、19世紀になるとインドから北へ進出をはかるイギリスに対抗して、植民地化をもくろむロシア帝国の侵略活動が活発になった。 1860年代からチェルニャエフ将軍++のロシア軍による東辺部の都市政略がはじまり、タシケントが陥落すると、1867年トルキスタン総督府がおかれてカウフマン将軍が着任した。1868年にコーカンドハーン国とブハラ・ハーン国、1873年にヒバ・ハーン国が帝政ロシアの保護国になった。しかしその後、1876年にロシアの支配に対して住民が反乱を起こしたコーカンド・ハーン国は、その報復として保護国からロシア領トルキスタンに併合され、フェルガナ州となった。厳しい抵抗を続けたトウルクメニアは1880年に平定された。 帝政ロシア領中央アジアは、こうしてそれぞれのハーンとロシア皇帝の二重の支配に苦しむことになった。 ソビエト化

1917年のロシア革命はただちに中央アジアに波及し、タシケントに西トルキスタンを支配するソビエト政権が樹立された。しかしボルシェビキによる無神論の強要ムスリムの反発を呼び、コーカンド地方から反ソビエト運動が中央アジアに広がった。エンヴぇル・パシャの指導によるバスマチ(暴徒)の反乱として知られる反革命運動は、1930年頃ようやく錯圧された。 1922年ソビエト運邦結成の際、中央アジアからトルキスタンとキリギズの両社会主義自治共和国が参加した。中央アジアのソビエト行政機関は1924年に発足し、1936年までに完成した。こうしてウズベク、カザフ、キリギズ、トウルクメン、タジクの5運邦共和国は、1991年の独立まで社会主義体制の下で生きてきたのである。

タシケント首都

ウズベキスタンの首都。旧ソ連圏ではモスクワ、レニングラード(現サンクトベテルブルク)、キエフに次ぐ第4の都市。中央アジアの政治・経済の中心で、民族の〝るつぼ〝。1966年の大地震で建物の大半が破壊されたが、その後高層住宅が建設され、新都市に変貌した。再建された建物が多いためソビエト風の都市となり、歴史を忍ばせる場所はイアム・アル・ブハラ・メドレセ、クカリダシュ・メデレセ・カファリ・シャシー朝等のイスラム建築にとどまっている。モスクワ型の深く掘られた地下鉄があるのも、中央アジアではただ一つタシケントだけ。市内北西にある旧市街は、土の家や土壁が残り、道は入り組んでカオスような活況を呈する。この地域はタシケントで唯一、シルクロードの面影を残す地域。独立に伴い、日本大使館など各国の大使館もオープン。 中央アジア都市のなかで最も規模が大きく、最も古い都市タシケントはウズベキスタンの北東のチルチク盆地に位置している。この都市は紀元前1世紀までさかのぼりながい歴史を持つオアシス都市で、タシケントはウズベク語で石の町と言う意味を持つ。世紀を超えて、タシケントはシャシ、チャチ、チャチケント、ビンケントと何度も名前を変えた。タシケントという名は11世紀頃から呼ばれるようになった。シルクロードの中継点として最も栄えたのがこの頃である。この都市は遊牧民と定住民が混在している都市である。 タシケントは1-2世紀頃から貿易が盛んだった。これはビザンチと中国西北地方で発見したコインから証明できる。モンゴル軍に破壊された後、チムール帝国、シャイバニ朝時代になって街は復興する。1809年にコーカンドーハン国の支配下に入った頃には、全長25kmの城壁に囲まれた人口10万の都市に成長した。しかし1865年に始まった帝政ロシアによる支配が街の様相を一変させることになる。ロシア人の入植がつづき、土塀が続く旧市街は、瞬く間に整然と区画された街並みに代わっていった。現在のアンホール運河を境に、東にはロシア人の街ができあがり、西のウズベク地域とは分割統治された。1966年4月26日に街をおそった直下型大地震で、一挙に消え去ってしまう。ソ連各地から3万人以上の“革命的労働者”が投入され、わずか数年で街は全く新しい近代都市に生まれ変わった。現在タシケントは1991年旧ソ連より独立したウズベキスタンの都市。現在、中央アジアの経済、文化の中心で、世界でも指折りの綿花栽培を始め、産業、食品、機械などの工業が盛ん。さらにタシケントはウズベキスタンで主要な学問の中心地となって、砂漠の中にあるにもかかわらず緑の濃い街で、ポプラ、カシ、トーポリの街路樹がきれい。

ゴールデン・ルートのサマルカンドへ

サマルカンドはテムール帝国首都。中央アジア最大の観光都市。“東洋のローマ”、“イスラム世界の宝石”と言われ、遺跡と街が一体化している。旧ソ連時代から観光開発が進み、旧ソ連圏では見逃せない都市のひとつ。タシケントの南西300kmにあり、人口60万で、ウズベキスタン第2の都市。別名“青の都”と言われ、イスラムモスクの青いドームが紺碧の空にそびえる。街の起源はBC10世紀に遡り、シルクロードのオアシス都市として発展した。キャラバン隊の通過点で、東西両文明が交錯した場所としても知られる。アレキサンダ-大王やトルコによる制圧、チンギス・ハンの侵略等を経て何度も廃墟と化したが1370年、テムール帝国の首都となり、帝国が滅びる1500年まで全盛時代を迎えた。現在街に残るイスラム建築の大部分はこの時代に建設されたものである。 サマルカンドはウズベキスタン共和国の第2の都市で、ザラフシャン川の南に位置している。1924年―1930年トルキスタンの首都であった。サマルカンドは中央アジア最古の都で,最も美しいとして知られる。紀元前一世紀にはサマルカンドはマロカンダと言われ、その後現在の名前を獲得した。紀元前4世紀にアレキサンダー大王が征服した時には、街の麗しさに驚嘆したと言われるほどで、古代より“オリエントの真珠”。“光り輝く土地”と親しまれた街。アフラシアブの丘にあった街はチンギズ・ハンによって破壊し尽くされ、無人の荒れ地と化した。そのサマルカンドを蘇らせたのがチムールである。“チンギズーハンは破壊し、チムールは建設した”と言われるように、彼は帝国各地から連れ帰った職人や建築家達を使い、サマルカンドをイスラーム世界に名ただる都市に復興した。世界に有名な建築群はレギスタン広場―ウルベク・メデレセ、テリャカリ・メドレセ、シルダル・メドレセの三つのメドレセ(神学校)がコの字型に並ぶ。サマルカンドで一番有名な建造物はグルーアミル廟である。北東にあるウルベク天文台は、当時、世界で最も正確に一年の長さを測ることができ、現在とほぼ誤差なくはかることができた。この天文台はチムールの孫ウルベクによって1428-1429年に建てられたものである。天文台から少しはなれた所にアフラシアブの丘の遺跡がある。この遺跡は古代サマルカンドの遺跡で、年代の違う地層から、13世紀、8世紀、紀元前3世紀の古代都市が発見された。サマルカンドのこの豪華な劇場で演じられる“演劇”を心行くまで楽しんでほしい。

神聖なブハラ

中世ブハラーハン国の首都で、広大なオアシスの中に位置する。人口21万人。サマルカンドと並ぶ中央アジア観光の中心であるが、俗化されておらず、中世の雰囲気が色濃く維持されている。ブハラはサンスクリット語で “修道院”を意味する。8世紀のアラブ族の移住でイスラーム化が進み、シルクロードの商業都市として繁栄した。1500年のウズベク族によるブハラ・ハン国創設後、首都なった。ブハラにはタシケントでみられたロシア化が及ばず、街並みは迷路を思わせる。 ブハラはメッカについで二つの聖なる街として認められた。3000以上のモスクが発見された。ブハラは1997年に2500年記念祭を迎えて、国連教育科学文化機関ユネスコの世界文化遺産の一覧表に登録されました。中央アジアの最高旅行センターとして認められた。時代を超えて、ブハラは何人かの征服者たちから侵入されて、焼きつくされました。しかし、全部廃墟の上に蘇りました。ブハラは10世紀に商業と手工芸が発展した街として有名でした。16世紀には西欧では商業のことに盛んな街として有名でした。ブハラは170件以上建造物を含んでいる博物館都市である。一番有名なサマン王朝の聖堂は中央アジアで第一の霊廟です。そして東洋でもとても若い霊廟である。この霊廟はサマン朝の支配者イスモイル・サマニによって12世紀に建設されました。霊廟の灰色の装飾は太陽の光が当たると無比な装飾になります。この建造物は点火したレンジで熟練して作っていて、装飾は一日中のそれぞれの光の変化によってその???さまざに変容させる。日没の時霊廟の壁は無重量レースようにあらわれます。 ポイ・カリャンミナレットは12世紀から16世紀まで古代ブハラの中心王位でした。このミナレットの高さは50メートルで、特別な模様で飾られている偉大さと豪華さは街を見れそして高くそびえています。 その遠方でチャル・ミナルの青いドームと要塞なアルクが見えます。15世紀から今日まで中央アジアで保存されていた古代の建造物の中にはウルグベクとくカルダシュメドレセが入ります。ブハラは伝説的なユーモアに富んだ聡明な人ホージャ・ナスレヂンの母国である。ナスレヂン・アファンヂの逸話を読んで楽しんでください。

"アファンヂと王様"

王様は詩人になりたかってので、詩を書いてアファンヂに読まれて褒められことを期待して渡しました。しかし、アファンヂはこの詩を読んで、ハエをのみこんだような表情をした。 『お好みに合いましたか?』と王様は聞いた。
『申し訳ありませんがどうしてこの詩をかきましたか。その代わりに王様なりのことをしたら・・・』
『あなた馬鹿』と言って王様は怒った。『ロバのところに閉じ込めなさい』と命令した。 アファンヂが一週間馬屋で過ごす間に王様は前のよりもっとよいと思った詩を書きました。そしてアファンヂをつれてくることを命じた。 『今の詩を読んでください』
アファンヂはその詩を読んで、すぐに帰ろうと思った 『どこへ?』と王様は叫んだ。 アファンヂは自分の手を胸に当て、ちょっとお辞儀のような動作をして、『馬屋へ』と答えた。
ヒワは野外博物館

長さ2200mの城壁に囲まれた旧市街は、中世の街を凍結させたような場所。“中央アジアの真珠”と呼ばれる。サマルカンドやブハラは、現代都市の中に遺跡が同居する形だが、ヒワは街そのものが遺跡になっている。1968年街全体が博物館に指定された。ヒワと呼ばれる場所は一般に、イチャン・カラという城壁内を指す。ここにはモスクが20、メドレセは20、ミナレットは6基ある。行政区画としてのヒワ市はデイシャン・カラと呼ばれる側にも広がる。カラ・クム(黒い砂漠)の北東部、アムダリア州の下流、ウルゲンチの町から南西30kmに位置する。2000年以上の歴史を持つこの都市は現在、綿花と 絹の集散地として発展している。 ヒワは、首都タシケントの西約750km、ウルゲンチから南西に35kmのアムダリャ川下流のオアシスの街で、古代ペルシヤ時代からカラ・クム砂漠の出口として繁栄した。 西方を砂漠に囲まれながらもアムダリャ川の肥沃なデルタ地帯であるホレズム地帯に人間が住み始め、農業を始めたのは、4000-5000年も前のことだから、この地帯の南の端に位置するヒワの起源もおそらくとても古いのだろう。ヒワは、8世紀には存在していたことが知られているが、当時はシルクロードからカスピ海、そしてヴォルガ川へと向かう脇道の小さな中継の街に過ぎなかった。そして、10世紀から14世紀にホレズム帝国の都、旧ウルゲンチ(今のトルクメニスタンのクフナ・ウルゲンチ)が何度か全盛期を迎えても、ヒワは相変わらず脇役のままだったがアムダリア川の水系が変わったためにヒワに首都が移された。ホレズムの政治、経済、宗教の中心地になったのは17世紀以後だ。 その後ホレズム随一のイスラムの聖都となり、街は外敵の侵入を防ぐために外壁と内壁の二重の城壁で守られた。内側の城壁の囲まれた内城イチャン・カラには20のモスク、20のメドレセ、6基のミナレットを初めとする数多くの遺跡が残されており、1968年には全体が“博物館都市”に指定され、1990年、ユネスコの世界遺産に登録された。観光客にとってヒワという時は、このイチャン・カラを指している。 この街に入ったときの第一印象をどう表現したらいいのだろうか。サマルカンドの青の街、ブハラの茶色の街並みから受ける印象とはまったく異質のものであり、完全にタイムスリップしてしまう。特に朝と夕方、観光客やお土産屋の人たちがいなくなった時間は、自分が何者であるかを考えさせられてしまうだろう。また月光に照らしだされた時など、かつて存在した奴隷市場のにぎわいや、残虐非道なヒワのハーンの仕業を思い出したら、怖くて歩けなくなるに違いない。
ヌラタはアレクサンドル王様の足跡があるところです。

ヌラタはウズベキスタン共和国の中心にあるナボイ地方の町である。沙漠を通していく道路はヌラタのポイントです。ヌラタから南尾根に位置して、フェルガナ盆地に繋がります。ファウナは特殊な動物で豊かです。250匹以上鳥の種類があって(その中で150匹は不変)、29匹のはう動物と35の乳動物があります。現代この地方に1873個以上昆虫の種類があります。 この地方に関して伝説があります。 『ある旅行者は沙漠で道に迷って、水を飲みたくて、途中で水が見つかると言う願望を願って、行く手を続きました。しばらくして、遠方に放射線がみえた、このことに信じられなかった本人は放射線に沿って続きました。この放射線は温泉があるところにつれてきました。この放射線のおかげで旅行者は再生した』 ペルシア語から直接日本語に翻訳すると『ヌル』は光、『オタ』はお父さんの意味です。
中央アジアのシルク地域

全長270kmのウズベキスタン最大の運河.1939年、ウスマン・ウズボーをリーダーに、延べ16万人を動員し、45日で造り上げた。この地方にはハシャールという相互扶助のシステムがあり、このダムもハシャールのおかげで早い完成をみた。フェルガナは、1877年に帝政ロシア軍の駐屯地として築かれた新興の町。建設当初はノーヴィ(新)・マルギランと呼ばれたが、1924年になったこの地方全体の呼称からフェルガナの名が採られた。 フェルガナはまた、“緑の町”とも呼ばれる。町中には運河の水路が走り、豊かな緑を育んでいる。街路は帝政ロシアの要塞(現在は軍施設)を中心に、放射状に真っすぐ延び、通りにはす水色に塗られた建物が並ぶ。その整然とした町並みから,“ミニ・タシケント”と呼ばれることもある。 街にはロシア人が建てた古い建築がある以外、特にこれといった見どころはないが、陶器の街リシタンやシルクの産地マルギラン等、フェルガナ盆地観光の拠点としてこの街を訪れる観光客は少なくない。
ヌクスは、

ヌクスは、ウズベキスタンの都市。同国西部の自治共和国であるカラカルパクスタンの都市である。人口は約20万人であり、カラカルパクスタンでは最大の都市。また、ウズベキスタン全土の中でも6番目の人口を抱える。ソビエト連邦内でカラカルパク・ソビエト社会主義自治共和国が成立した1932を境に、それまで小さな集落に過ぎなかったヌクスは、その首都として急速に発展を遂げることとなる。市内にはソビエト式の大通りや公共住宅が建設され近代化が進められたが、その一方で、化学兵器の研究・実験を進めた化学研究所が赤軍(後のソビエト連邦軍)の手により建設されていた。その原因の1つは、ヌクスが他の都市から離れた場所に位置する小都市であったことが挙げられる。ソビエト連邦の崩壊後、アラル海の縮小で砂漠化や害虫問題が深刻化し、ヌクスは環境汚染が深刻化している地域の1つとなっている。
テルメズはウズベキスタン共和国の南部

テルメズはアムダリャ河のシルクロードのルートに交差して、テルメズ川から北西5キロメトルぐらいの便利なところで構成しました。数年を渡りテルメズはバクトリアとクシャン帝国で一番発展した街でした。千年を通してテルメズはたくさん帝国のーアレクサンドロス大王、チンギズ・ハン朝、アミル・チムール帝国の一部でした。テルメズから50キロメトル離れ、ダルワルジンテパと言うところで発見された古代の居留地は世界文化史の著しい出来事です。多くの考古学的な仏教とギリシア文化の文物から判断すると、ダルワルジンテパはシルクロードの最も古ルートである。さら遠くにカラバンはルートはウズベキスタンの現首都『石の街』タシケントに続きます。 ダルヴァルジン・テパは、ウズベキスタン芸術学研究調査団により長年にわたり組織的調査が行われてきた遺跡の一つである。ダルヴァルジン・テパ遺跡は、拡大なスルハンダリャ流域に対するスルハンダリャ州シェルチ地区ダルヴァルジン村の中に位置する。1962年、ここでは、大都市の宮殿を取り囲んだ、厚さ9.6mに及ぶ城壁が発見された。 その築造期は、グレコ・バクトリア時代(紀元前3―2世紀)に遡り、総面積は5haの小規模な集落が形成されたときのことである。凡そ紀元前後、クシャン朝時代には、集落は宮殿としての城砦に拡大、発展していった。城西の北側に都市が形成されるに伴い、城砦と都市そのものは、厚さ8―10mの防壁によって囲まれていった。防壁の内部には、大通りと狭い道が格子状に走り、全体を幾つかの街区に分けていた。ここには、大富豪の邸宅や単層からなる家屋の住区、焼き物職人の住区、土着の女神に捧げられた神殿や仏教寺院などの信仰施設が含まれた。また城壁の外側では、単層からなる家屋をはじめ、庭園、ブドウ畑、農地、集団墓地が確認された。さらに都城址から北へ500mの地点で、別の仏教小寺院も発見、調査された。 クシャン朝時代(紀元2―3世紀)には、都市では、手工業が急速に発達した。焼き物職人の住区では、一列に並んだ11基の窯址が発見された。そこでは、家庭用の土器が製作されていた。 都市の大部分は、住民の住居址で占められていた。住居に間には、道や広場、貯水槽、小規模の庭園が設けられていた。とりわけ注目されるのが、二棟の大富豪の邸宅である。邸宅は、其々16室と24室あり、大広間、台所、食堂、大人と子供の部屋などに分かれていた。これらの部屋の一室では、床面から、象牙でできた世界最古の将将棋の駒や女性用の櫛、サイコロが出土した。 またこの邸宅の部屋の床下に隠されていた壺の中から総量約36kgの黄金製品が出土しており、学術的に重要な遺跡である。115点にも及ぶ黄金製品の中でも、胸飾りと金糸でできた首輪はとりわけ注意を引いている。 上述したように、ダルワルジン・テパ遺跡では、二つの仏教寺院址が発見された。第一仏教寺院址は1967―68年に、調査が行われ、第二寺院址は、1983年に発見、調査が始められた。 大都市の中で、二つの仏教寺院が存在していた事実は、都市住民の生活における寺院の役割と土着の宗教における仏教の地位について物語っている。ここでは、7体の仏陀像と6体の菩薩像の他、20点以上の大、小の仏教彫刻が出土した。
シャフリサーブズー緑の都市

サマルカンドの南約80kmに位置する。歴史的には古代から中世まで、シルクロードの重要なオアシス都市としての位置を占めていた。ソグヂアナ(サマルカンド、ブハラ一帯を指す)の都として繁栄し、ケシュの名で歴史文献に登場する。紀元前4世紀、マケドニアのアレキサンダー大王の侵略をうける。8世紀には西から襲ってきたアラブ人に対する現地人の反乱拠点となった。そして、13世紀にはモンゴルのチンギスーハンに激しく破壊された。シャフリサーブズは、カシュカダリア川の恵みをうけて生まれたソグデイアナの古都。今まで、シャフリサーブズはガワ、スグダ、ナオタカ、ケシュ、と言う名で知られていた。しかし、シャフリサーブズの名を歴史に留めるのは、ここで生まれたチムールの存在であろう。  1336年、英傑チムールはシャフリサーブズに生まれる。若きチムールはこの地方を治める豪族の家に生まれた。チムールはこの地を地盤に頭角を現し、“世界の支配者”への道を歩んでいた。広大な帝国を築いた後も彼はこの故郷を忘れず、サマルカンドに決して引けを取らない壮大な建築群を次々と建設した。1370年にはチムール帝国が成立し、以後100年余りこの街は黄金時代を迎える。ナヴォイ、ジャミ等の詩人、学者のウルベクもこの町を舞台に活躍した。ペルシア語で「緑の街」の意味を持つ街の名は、この頃のオアシス都市としての豊かさを物語っている。 しかし16世紀後半に、嫉妬に駆られたブハラのアブヅウール・ハンによって、チムールの遺産のほとんどが破壊されてしまった。シャフリサーブズは、サマルカンドやブハラ等とは違った運命を辿ることになった。 現在のシャフリサーブズに昔日の華やかさはないが、その静かなたたずまいには大いなる歴史が秘められている。



人々との生活と習慣


シャイバニ朝やアーストラハーン朝の領土だったフェルガナ地方は政治的統一がなく、ウズベク族の周辺にカザフ族やキリギズ族が割拠していた。 18世紀始めウズベク族ミン氏がこの地に支配を強め、その子孫エルデニ・ベクはフェルガナ地方を統一して、1753年ブハラ・ハーン国から独立しコーカンド政権を樹立した。 外交関係を深めた清朝と西トルキスタン、ロシア帝国との間を結んだ中継貿易で莫大な利益を収めたが、1840年代からブハラ・ハーン国からの侵略と内紛で弱体化した。 あいさつ

ウズベキスタンでは、何はなくともアッサローム・アライクムだけは覚えておきたい。“あなたの元に平和があるように”という意味の、イスラーム世界共通の挨拶である。この挨拶とともに握手を交わすのが普通であるが、お年寄りなどは握手の後に右手を腕に当て、ちょっとお辞儀のような動作をする場合がある。この動作をすると、それはさらなる尊敬を表すのだそうだ。またこう呼びかけられたときはワアレイクム・アッサロームと答えるのが普通であるが、ウズベキスタンの人でも外国人に先にこう挨拶されると、あせってアッサローム・アレイクムを繰り返してしまう人がいる。もちろんムスリムではないロシア人は、こう挨拶されるのをあまり好まない。 握手

ウズベキスタンでは、どこへ行ってもこの握手からことが始まる。友人とであったとき、友人となるとき、たまたま同席になったとき、また警官に罰金を取られるときも、まずはこの握手で挨拶である(ただしこの握手のおかげで、警官の態度が軟化することはほとんどない)。そして別れるときも、この握手で終わる。ただし左手を出してはいけない。握手の間、左手は胸の上に置くと、より丁寧な意味になるという。しかし女性から男性に握手を求めることは、滅多にない。いろいろ誤解されるようなので、気をつけよう。女性同士の挨拶では、両頬をお互いに合わせるようにしているのをよく見かける。 ナン

ナンはイーストを使わず、竈で焼く平べったいパンのこと。スープにもサラダにも、またシャシリクの皿としても、食事の際には必ず付いてくる主な食である。 ですからナンは非常に尊ばれる。ナンを裏返しに置いたり、地面に捨てたりしてはいけない。落ちているのを見つけたときは拾い上げ、キスをし、額に3度つけてあやまるのだそうだ。
国民のお祭り ・3月21日のナブールズは春を告げる旧正月です。古くはゾロアスターの時代の新年に由来します。この日は祝日となり、人々はゆっくり休暇を楽しみます。 ギュラル・バイラミは5月、春の花が咲ききった頃に行われるお祭りです。ホスイル・バイラミは秋の収穫時に行われるお祭りです。
ウズベキスタンの 祝祭日
1月1日新年
1月14日軍隊記念日
3月8日婦人の日
3月21日春分(ナブルーズ)
5月9日戦勝記念日
9月1日独立記念日
10月1日教師の日
12月8日憲法記念日
Iyid-al Fitr (ラマダン後)と
Iyid – al Adha (メッカ詣で後)も国民的祝祭日ですが、太陰暦に応じてその日が決まります。
技術と衣装


建築

代々の支配者層が宗教的権威と深く結びついていた経緯から、ウズベキスタンのイスラーム文化の粋はモスクやメドレセなど宗教的建造物に集約されていると言っていいだろう。特産のメロンの形をしたドームや入口を飾る壮大なアーチ、ミナレットなど、どちらかというとイスラーム建築は形式主義的な傾向が強いが、中央アジアの建造物は、それを補って余りある荘厳さに満ちている。また外壁を飾る幾何学模様の複雑さや、大規模建築を可能にする基盤として、中世の中央アジアで数学が発展したことも興味が深い。残念ながら、イスラーム以前の建築で完全なものはひとつも残っていない。石材がなく、日乾しレンガなど風化しやすい建材が使われたことがひとつの原因である。さらにたび重なる戦乱のため、特にモンゴル軍の到来を境に中央アジアの地表はすべて塗り替えられてしまったといえるだろう。現在ブハラに残るイスマイール・サーマーニ朝が、ウズベキスタン最古の建築となっている。ウズベキスタン建築の特徴であるレンガ建築の最も美しい例としても有名だ。またもうひとつの特徴である色タイルの使用は12世紀ぐらいから始められ、その最も初期の例が、ブハラのカラーン・ミナレットに見られる。 科学

イスラーム文化の中心地として栄えた頃のウズベキスタンは、高名な科学者を数多く輩出している。彼らの多くが単なる科学者ではなく、文学や美実にも精通したルネッセンス的文化人であった点も注目に直する。ウズベキスタンで最も有名な学者といえば、イブン・シーナ(980-1037)がまず挙げられるだろう。医学、哲学、自然学など彼が残したち著作は300点に及び、そのひとつ医学規範はヨーロッパ医学発展の基礎となった。もっぱらルバイヤートの詩のほうで有名なオマル・ハイヤーム(104x?-1123)も、セルジュク朝のウズベキスタンで活躍した数学者であった。チムールの孫であるウルベクも、古典時代の10大科学者のひとりに数えられる、偉大な学者であった。 建築

代々の支配者層が宗教的権威と深く結びついていた経緯から、ウズベキスタンのイスラーム文化の粋はモスクやメドレセなど宗教的建造物に集約されていると言っていいだろう。特産のメロンの形をしたドームや入口を飾る壮大なアーチ、ミナレットなど、どちらかというとイスラーム建築は形式主義的な傾向が強いが、中央アジアの建造物は、それを補って余りある荘厳さに満ちている。また外壁を飾る幾何学模様の複雑さや、大規模建築を可能にする基盤として、中世の中央アジアで数学が発展したことも興味が深い。残念ながら、イスラーム以前の建築で完全なものはひとつも残っていない。石材がなく、日乾しレンガなど風化しやすい建材が使われたことがひとつの原因である。さらにたび重なる戦乱のため、特にモンゴル軍の到来を境に中央アジアの地表はすべて塗り替えられてしまったといえるだろう。現在ブハラに残るイスマイール・サーマーニ朝が、ウズベキスタン最古の建築となっている。ウズベキスタン建築の特徴であるレンガ建築の最も美しい例としても有名だ。またもうひとつの特徴である色タイルの使用は12世紀ぐらいから始められ、その最も初期の例が、ブハラのカラーン・ミナレットに見られる。 美術

イスラームの教義により偶像崇拝が禁じられたため、ウズベキスタンでは人物や生物をモチーフにした絵画や彫像美実はまったく発展しなかった。その代わり、精密な機何学模様やアラビア文学を図案化したカリグラフィーなど、独特の発展を遂げ、多くの建造物を飾って今も我々の目を楽しませてくれる。唯一の例外としては、ペルシア文化の流れを引くミニアチュルー(細密画)が挙げられル。平板な画面に宮廷生活や狩りの場面などが生き生きと描かれ、当時の生活を彷彿とさせる。詩集や歴史書の挿画として好んで描かれたものだが、現在も、特にウズベキスタンで、その技術が職人たちに受け継がれている。イスラーム以前の美術がいかなるものだったのかは、ペンジケントやアフラシアブなどから出土された数々の壁画をみられば、充分に察することができるだろ。

中央アジアでは ウズベク人の伝統的な服は文化的に、宗教的に、民族的に同一物です。最も印象的な男性向きの服は・チャパン日本の????に似ているものです。この長いコートは????。ウズベク人の帽子はウズベク語でドッピと言います。このドッピは黒と白の一般的花模様のスタイルで刺繍していて、宗教的のと民族的なのです。または女性向きの帽子を刺繍にまだらにしてあるのは未婚の女性のぼしです。結婚している女性は普通は鮮やかな飾っているのをかぶります。 刺繍は中央アジアでは世俗的な美術であります。普通はウズベク人の女性は刺繍した巨大な織物のパネル・スざナー、不定のサイズでの木綿をつるすことをウズベキスタンのバザールで売ることに一年間をすごします。この刺繍した織物は新婚の夫婦たちのためにベッドを覆うことと新婦の持参金としても使われています。あるいは壁飾りとしても使用できます。伝統的な原因で覆ったのは各地方の象徴を表している、しかし、いつも保護的な役割を持っているんです。


National emblem


ウズベキスタンの国章は 1992 年 0 7月 0 2日制定された。この国章は神聖なフモという鳥と飾っているんです。この鳥はイランの伝説に描かれているものである。タメルランは(チムール)言うまでもなく伝説上の人影です。この国であるすべての像、道、公開の公園、博物館もチムールの名前で名づけています。今まであるヵルル・マルクスまたはレニヌの名前で名づけた本通りはチムールの名で取り代わっています。


ウズベキスタンの国旗

ウズベキスタンの国旗は1991年11月8日制定された。 空色の帯は、青天と純水の象徴である。この色は、かつてチムールも自軍の旗に選んでいる。白色は、平和と純粋さの象徴である。下の緑色は、天恵の自然の具現である。各色の間には、赤色の細い帯が走り、生命力を象徴している。丈夫の空色の帯状には、晴天を象徴する三日月と 12 個の星が描かれている。三日月は、イスラムとウズベク人の伝統に基づいている。 12 個の星が選ばれたのは、 12 という数字が完全性の象徴だと考えられているからである。

ウズベキスタンの国歌

ウズベキスタンの国歌はウズベキスタンの独立後、アブヂュラフ・アリポヴによって書かれてのです。曲はムタル・ブルホノヴによって作曲されています。ウズベキスタンの国歌は国の優秀さと住民の喜びしさとこの国で生まれて、生きていることの自尊心をほめています。


伝統的な料理


ウズベキスタンには、まだあまり食事を楽しむといった雰囲気はない。普通に外で食べられる料理は、羊肉のシャシリクやプロフ、ラグマンなどで、種類はさほど多くない。個々の料理は決してまずくはないのだが、旅が長くなるとやはり飽きてくる、羊肉が苦手の人にも、つらいかもしれない。 もちろん各首都や高級ホテルの中には、日本で食べ慣れているような料理を出すレストランもある。たまには奮発してもいいだろう。また首都には、ピザやハンバーガー(のようなものの場合が多いが)のファストフード店も増えているので、まったく食べられるものがないということには、少なくともならないはず。 実際のところ。人々が家で食べている伝統的な家庭料理は種類も豊富でおいしいが、まだ観光客の要望に気付かないのか、そのような料理を出す店はほとんど存在しない。B&Bの食事やツアーの家庭訪問などで試してみるといいだろう。ウズベク人に伝統料理は何かと聞けば、まず返ってくる答えはプロフである。プロフには地域によって、また羊肉とにんじんの基本的な素材に加わる材料によって、数々のバリエーションがある。例えばサファキと呼ばれるブハラ地方のプロフは、米と肉とにんじん、玉ねぎが別々にゆでられ、最後に盛り合わせをする。豆の入ったノハトウリ・プロフ、干しブドウが入ったマイーズリ・プロフ、ブドウの葉でくるんだ挽き肉を載せたコヴァトリ・プロフなど、内容と作り方で名前が異なる。プロフをもう少し柔らかく炊き込んだシャヴラ、雑炊のようなマシャヴァという米料理もあり、日本人好みの味である。そのほかにも、ショールヴァと呼ばれる野菜と肉の具だくさんスープや、麺入りスープのウグラなど、なかなか店先には出てこないおいしい伝統料理は多い。

プロフの作り方

プロフは代表的なウズベク料理です。

七人に向けて

材料

米 1 キロ

肉 500 グラム

ヒョコマメ 150 ― 200 グラム

油 0,5 l

玉ねぎ 2個、4個

にんじん 400 グラム

塩 味により

調味料

作り方

油を熱し、玉ねぎを揚げる。次に肉を入れ、にんじんを揚げ、水を入れ、塩を入れて15分ほど煮る。煮えたら塩、ヒョコマメ・コショウで味を整え、米を入れて約30分弱火で炊く。炊き上がったら、蒸らして出来上がり。

肉はできれば羊肉、 なければ牛肉でも大丈夫。これにトマトと玉ねぎを酢で和えたものを添える食べる。おそらく日本で作るとウズベキスタンのプロフとは異なったものになってしまうであろうが、日本でウズベキスタンのプロフが恋しくなった羅作ってはいかがだろうか!

飲み物

紅茶と緑茶はウズベキスタン住民のあふれた飲み物です。一日中色々なわけを利用して飲まれます。お茶を飲む時間はくつろいでいる時間です。お茶を飲む前にお茶碗から茶瓶にお茶を三回入れ換える。これは一回は泥、二回は油、三回はお茶になるといういみです。お茶碗を決していっぱいにしません、それはお客さんが出発する時間ですという誤解が生まれます。いっぱいお茶碗は頂ける人に対してよくないです。左手で渡すのは不純な行動です。お茶碗は必ず右手で渡さなければならないです。ウオッカはウズベキスタンで二番目の好みの飲み物です。少しだけ伝統抜けるが、しかし、近代的である。


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